甲南 第35号 創立八十周年記念特集号 |
池田校長時代 校長転任問題 昭和十年秋、突然池田校長の転任問題が起こった。一中の校長が転任されたので、その後任に鹿児島一中出身である池田校長を最適任と認め、既に県より文部省に内申の手続き中であることを十二月に知った。この五年間、池田校長は二中向上のため粉骨砕身された。職員生徒もこの校長のもと一致協力して実力を高め、校風もよく上がった。天皇の行幸が一中に決定し、職員生徒の失望を察した校長は、生徒に「私は生きてる限り二中を離れたくない。」と誓われた。二中に留まりたいという校長の真情に、職員、父兄会、同窓会の留任運動が展開された。一中府警、同窓会も自らを捨ててこの運動に力を添えられた。校長は自らその哀情を当局に披瀝されて、裁決者の知事も了解されて、転任問題は解決した。古賀校長(池田校長の前任者で、現甲南高校本館建設を県当局に了承させた人物)の時も一中に転任の交渉があったが、校長が当局にことわられたということである。 |
報國團雑誌 第三十三號 |
校長轉任問題に就いての所感 四年 横山正治(注) 我が始めて二中校長が一中校長になるだらうといふ事を新聞で見た時、先づ感じた事は、二中は一中よりすぐれてゐるとのみ思つてゐた時分に、青天の霹靂の如く我が胸に感じた。つゞいて當局はまだ我が二中を認めないのかといふ憤りの念が我が奥底に燃起つたものゝ、夜になるにつれ靜かに考へると、自分等がまだまだ不十分な點があるのだと思ひ、諦めようとしたがどうしても諦められなかつた。又思ひつゞくれば、校長にして見れば一中は母校である。人情の常として、人は故鄕を慕ふが如く、亦母校を愛するのだ。誰しも母校を天下一の學校と爲したいものだ。校長先生は是の時何れをおすてになるだらうか我が心は迷つた。然れども我は校長は二中の校長だと信ぜざるを得なかつた。校長先生が聖上陛下御還幸を終られ、無事宮城に着御あらせられた意義ある當日、我等に言はれた中の一句「自分は諸君とともに二中の爲によりよき二中としよう」といふ意味の言葉を忘れられなかった。
自分はその時、此の校長のもとに、國家の爲めに、二中の爲めに天下の難關を突破しようと誓つたのであつた。其れが今日になつて校長が一中に行くとは思へず、亦校長は死んでも留めたい氣になつた。途中我等が一中生を見る時、彼等に校長を取られるかと思へば、情けなく感じられたのであつた。其の後數多の先輩先生等の力、及び當局の同情により、二中校長留任となつた報を聞くや、涙の出る程うれしく、全く喜びの頂上に達した氣持となつた。然るに彼等一中生を見る時、果して威張る氣になれなかつた。校長先生は言はれた「今彼等は校長なく迷つて居るのだ。學問では爭つても、其の他の事で爭つてはならない」と實に全くさうだ。彼等は二中校長が一中校長とならず、落膽してゐるにちがひないと思ふ時、氣の毒にも思はれる。一方が福となれば一方は禍となる。是は致し方なきものゝ、福少き人に同情するのは福なる人の常でなくてはならぬ。是の如く我が二中は益々發達せねばならぬ時期に入つたのだ。校長先生が我等二中生を信じてあくまで二中に留任されることは、我々に重々喜びにたへない所であつた。我々二中生徒は是の時期に際して、校長先生の面目の爲めに、二中の爲めに、亦是の千載一遇の行幸を機として、益々健全なる進歩發展をはかり、國家の爲め有益なる人間と爲る事を期しなければならないのである。
(注)筆者は二中四年修了後、海軍兵学校へ進み海軍軍人となり、真珠湾攻撃において特別潜航艇の一員として出撃し戦死。獅子文六が本名の岩田豊雄で発表した小説「海軍」の主人公「谷真人」のモデル(こちらのページ下半分も参照)。
【出典】 書名:報国團雑誌 第三十三號(軍神横山少佐記念號) 編著:鹿児島縣立第二鹿児島中學校報国團 出版年:昭和17(1942)年 |
創立百年 |
《昭和十年(一九三五)》 (前略) 十一月の行幸は、天皇は八日には御召艦比叡にて鹿児島にお着きになり十五日までの間に国分・都城・宮崎・延岡などでの演習親閲・行幸をなされ、十六日に鹿児島に帰っておられた。十七日伊敷練兵場で親閲があり、いよいよ十八日本校行幸である。九時行在所(一高女)を出発され三分少々で本校にお着きになった。 (中略) この行幸の直後に野山(忠幹氏―管理人註)校長の愛知一中への転任が決まった。十二月四日生徒への告別式(当時の呼称で、現在の離任式にあたる。―管理人註)を行い、七日には愛知へ出発した。
《昭和十一年(一九三六)》 一月、寒稽古で新学期も始まった。このころ校長は不在で、野村(憲一郎氏。戦後、昭和32年から昭和37年まで甲南高校校長)教頭がすべてを指導していた。野村教頭は前年三月の着任で、この時三十四歳の若さであった。
二月二十六日、日本のファシズム体制への重要な段階を画する出来事である二・二六事件がおこった。(中略)この頃に岡本立彦新校長の就任が決まり、着任したようである。前任の野山校長とは性格も全く異なっており、身長高く悠揚迫らずといった風格で、野山校長が絶えず前向きの姿勢で、時には強引に仕事を進めたのに対し、守成として学校経営を進めた。体躯堂々とし、その朴とつな話し振りで、生徒からも信用されたという。 |