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出典:山田尚二「鹿児島県の中等教育の変遷-中学造士館を中心に-」


解説1

■甲鶴戦の原点と両校の関係

一中は、明治27(1894)年に鹿児島県尋常中学校の校名で創立し、一方の二中は、明治17(1884)年開校の鹿児島県立中学造士館が起源で、国管理の鹿児島高等中学造士館予科・予科補充科を経て、尋常中学校創立の3年後には、県管理の鹿児島県尋常中学造士館となりました。所在地は、造士館が現・県立図書館、中学校が現・中央公園付近で、国道10 号(館馬場=やかたんばば)を挟んで並立する状態でした。造士館は生徒数が少なかったので、明治31(1898)年には、中学校の1年生から4年生まで(旧制中学は五ヶ年制)の各学年40名を中学造士館へ転校させています(学校略歴参照)。当時の転校生の回想は以下のとおり。

 

教員室や講堂は立派だが、教場は下の中学に較べると遥かに古くて穢いので、何だか情けないような気もしたが、「田島どんの馬丁(べっと=厩務員。サイト管理人注)」 と綽名のあった中学校の徽章をすてて「造」の徽章をいただいた時は、大いに気持ちがよかった。造士館を上の中学尋常中学を下の中学といい、両者の間にはよくけんかも起こった。鹿児島県教育史(鹿児島県教育委員会編、昭和35=1960年)

 

明治34(1901)年、鹿児島に高等学校(旧制七高)が設立されることになり、また、中学校の1郡1校制を国が打ち出したため、造士館は廃止、生徒は1年生から3年生までは新規設置の中学校分校(制度上、分校は3年生まで)、4年生と5年生は中学校本校へ収容されました。この分校がのちの二中です。

解説2

鶴丸高校が創立百周年時に刊行した「創立百年」には、明治32(1899)年と明治33(1900)年の項で当時の一般紙投書欄から旧制中学校に関するものを紹介しています。以下はその抜粋です。なお、文中の中学校は鹿児島県第一中学校、造士館は鹿児島県中学造士館を示します。

 

明治32(1899)年

中学校の寄宿舎の応接室は不便だがどうにかならないか。造士館の舎生はよく舎則を守っているようであるが、中学校の方は駄目だ。夕方、中学校の寄宿舎の門前に行けば良くわかる。酒気紛々たる舎生が続々と帰ってくるから。また夜十一時ごろ寄宿舎の塀を乗り越えて帰っていくのも良く見掛ける。

造士館の生徒が塀の上から石を投げ当たったがどうにかしてほしい。また堀の魚釣りをしている人を造士館の方で取り締まれないものか。

■余は先日造士館の下を通行せしに同校生徒は頻りに余を指してヨカチゴと云えり。もし余をして婦人ならしめそして彼等美人などと目を細くせしめば如何。学校生徒としては不都合の至りにあらずや。

 

明治33(1890)年

中学校造士館や商業学校などに野球で勝ち、鹿児島野球界に覇を唱えているが、今度五高に挑むという。中学生の妄に一時の勝利を以て一市の名を汚すようなことのないように願いたい。

造士館へ加治屋方限より成績悪き者が合格し不思議に思っていたところ、調べてみると同方限の学舎で同館の何某なる教員が問題を示し教えていたという。こういう事があっていいものか。

□加治屋方限関係者で調べたが、そういう事実はない。まず何某という館の教員が本学舎に出入りしていない。

■磯で中学生と商業生との喧嘩があったというが 商業生を町人町人といやしむからそういうことになるのだ。

中学校造士館で、薩摩語で授業する教員がいるが我々県外人にはまるで英語の授業のようだ。何とかしてほしい。


1998(平成10)年8月2日(日)付 南日本新聞
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