甲南 第35号

創立八十周年記念特集号 

甲南の発展(二)

(前略)

昭和三六・七年から高校生の急増が議題になっていたが、この問題について、県では鹿児島市内に高校を一校新設することとした。これがいわゆる新設校問題であり、本県高校教育界に一大波紋を投ずることとなっ たのである。

 

この問題の本校に関する最大の問題点は、新設校を鶴丸高校の分校という形にしたいとの働きかけであって、このような鶴丸高校のマンモス化は、鶴丸・甲南両校の格差をますます増大させるものとして、甲南関係者の反対を呼んだ。野村校長はこれに職をとしてあたられ、ついにその実現を粉砕することに成功した。このため、鶴丸高校長の池江先生の自殺を招いたような形となり、野村校長に対する世論の風当たりはかなり強いものがあったが、野村校長のとった態度は、鹿児島県全体の高校教育の向上という大きな視野に立ったものであり、また、甲南高校の校長として当然のことであったことは、大方のよく認めるところでもあった。

 

この問題が、中央高校の発足という形で結論のでた、昭和三八年一学期末の九月二日、野村校長は六年の任期を終えられて甲南を去った。

 

甲南の充実期 

昭和三八(一九六三)年度

この年は、六年半余り勤務された野村憲一郎校長が勇退(郷里に新設の日大宮崎高校長に就任)されて九月二日に辞任式が、翌日に谷山高 校(現・鹿児島南高校―管理人註)長篠崎五三六先生を後任校長に迎えて新任式が行われた。また、高校生急増に対処するため鹿児島中央高校が開校し、市内の既設普通科高校に新たな刺激を与えた年でもあった。本校も一年生の定員が五五〇名(一一学級)となった。

(後略)

創立百周年記念誌 甲南 

昭和三十八(一九六三)年度

※学校長途中交替

九月二日 野村憲一郎校長先生辞任式

九月三日 篠崎五三六校長先生新任式

 

野村憲一郎先生は郷里に新設された日本大学宮崎高校校長に就任するために、九月二日に甲南高校を辞職され、翌三日に篠崎五三六先生を新校長として迎えることになった。この間の事情は定かではないが、寄稿(年誌「甲南」第12号1963年刊―管理人註)にその一端を窺わせるものがあったので紹介する。

 

寄稿「大きく育て」 (二中出身)○ ○○

■最近感激に堪えない事が一つあります。それは野村前校長先生が学校を勇退された事についてであります。

■昨年の今頃だったかと思う、甲南高校から緊急話があるから集れと呼出しを受けました。

■それはご承知の通り、高校生急増対策の一つとして、高校を新しく増設することを県が決めたが、その新設校を鶴丸高校の分校にすることが県の教育委員会で決まりかかっているとの事で、鶴丸高校が生徒数に倍に膨れ上がると甲南高校はその半分で、進学其の他の事で鶴丸に太刀打が出来ない。出来なければ出来ないでよいではないかと、云う人もあったが、それでは二校が互角でせり合う事で鹿児島県高校の進学、其の他の事に進歩がある。一方が圧倒的に優勢になると、競争がなくなり、鹿児島県高校の進学、其の他の事に悪影響がある。甲南高校の発展の為にも良くない。

■これはなんとかして阻止せねばならぬと校長の熱烈な希望でありました。三十人位集まっていましたが、皆賛成、それから二中二高女、甲南の先輩多数集まりいろいろ運動することになりました。二中同窓会長(当時県会議員)を先頭に先生、二中、二高女の先輩の方々、小生は列尾に加わり、県知事、教育長の所へ陳情に行き、又教育委員と知り合いの方は教育委員を直接説得しました。

■幸い県知事も教育委員会も吾々の主張を聞いてくれ、現在のように中央高校が独立して新設されることになり一同これでほっとしたわけであります。然しこの裏には野村前校長先生の職を賭しての熱意、誠を見逃すわけにはゆきません。普通の校長なら、教育委員会にたてついては自分出世をさまたげる、将来悪い結果になるからまあ目をつぶって教育委員会の云いなりにしておけと、知らん顔をしていたかも知れない。然し野村前校長先生は決然として正義の剣を振りかざしてこれと戦い、遂に成功し、鹿児島県教育の為につくされたわけですが、やはり日本の民主政治は未だ本当の民主的に育っておらず、昔の権力主義の匂いが濃厚に残っているものですから、野村先生は遂に勇退せざるを得なくなったものと推察されます。先生は甲南高校に自分の余生を全部ささげたかった、との意を送別の席でもらしておられました。

創立百年 

鶴丸の歴史が、平穏な姿で展開されていく中にあって、昭和三十七年は、いわば激動の年であった。

 

まず二月、次のような内容の記事が新聞に掲載された。戦後の第一次ベビーブームを反映して、次年度から高校生の数が急増するので、県教委としては、鹿児島市に新しく県立普通高校を設置する予定であり、その建設予定地として旧一中跡も考えているというものであった。すなわちこれは、県教委の次のような判断によるものであった。

 

1:新設高校は高校生急増対策の一環として設置するが、鶴丸、甲南、玉龍と同様、学校の内容も充実させる。

2:旧一中跡は教育的な環境もよく、学校敷地として最適である。

 

県教委から一中跡にあった警察学校の移転交渉を受けた寺園勝志知事は、この案に一応賛成はしたが、「一中跡につくればもめる恐れもある」として、下伊敷町の県練兵場跡の県有地も候補にあげた。しかし、県教委は「伊敷は工業高、女子高などが隣接しており、高校の配置からいってもまずい」と、教育的立場から旧一中跡を強く推した。

 

「敷地は旧一中跡」と聞かされて、まず鶴丸高のPTAから異議が出た。五月十九日の総会で、早速旧一中跡グラウンドに関する決議を行い、次のような陳情書を県教育委員長その他へ提出した。

 

今般高校生急増対策の一つとして、当市に新しく高校が設置されますことは、まことに父兄として御同慶にたえないところであります。しかるに同新設高校が薬師町の一中跡に設置されるやに巷間伝えておりますが、一中グラウンドは鶴丸高校が運動場として使用し管理しているものでありますので、この点を御考慮下さいますよう理由書を添えて、とくにお願い申します。会長名。

 

添付された理由書にある第一の理由は、加治屋町の運動場は設置基準に比べても大変狭いために、鶴丸高校では、一中跡グラウンドを年間三百数十時間の体育の授業や、さらに、放課後の部活動にも使用している現状であ ること。第二の理由は、一中が昭和二十四年加治屋町の一高女に統合されるとき、一中跡グラウンドは鶴丸高校のものであることが条件として確認された歴史的経緯があり、以来十三年間、除草作業など管理し続けているということであった。新設高校が、もし一中跡に設置されるということになれば、鶴丸高校は運動場を奪われたうえに、一中の後身という系譜も切れてしまい兼ねない重大な事態に陥ることになるのであった。

 

こうして新設高校問題は、鶴丸高校のグラウンドを巡って二転三転することになる。県教委は鶴丸高校関係者とその解決策を検討し、その結果出てきたのは「一中跡の新設高を鶴丸高校の西教場にする」という案であった。これなら一中跡グラウンドを両教場が共用できるという考えであったが、八月末、二中・二高女同窓会側から「分教場案は、旧一中と旧一高女が復活する恐れがあり、戦後学制改革によってできた男女共学の路線が崩れる可能性が強い」という反対陳情が出た。続いて九月には「共有」案が出された。新設高校を薬師町に独立高校として設立し、グラウンドだけを鶴丸と共有しようというものであったが、当座はしのげても長期的には困難に思われた。最後に「引っち切り」案。鶴丸はやむなく一中跡グラウンドを 放棄するが、代わりに加治屋町校舎に隣接する民有地を買収し運動場に突き出た校舎を切り取ってそこへ移築すれば、運動場もいくらかは余裕が出てくるであろうという考えであったが、その民有地の買収は一高女以来の歴代の校長を悩ませ続けてきた問題であったことを思えば不可能に近かった。

 

この紛糾を打開するために、県教委は九月十二日、鶴丸・甲南・玉龍・谷山の各高校長を招き、事態収拾を図った。このとき、池江校長は「鶴丸高は建学(男女共学)の精神をつらぬく。やむをえず一中跡のグラウンドは 放棄する。その代わり七高グラウンドを使用する考え方もある」と提案。事態は急速に好転したと思われた。しかし、池江校長は十三日突如急死された。鶴丸の行く末を思い、この新設高校問題にいかほど苦慮されていたことであろうか。誰よりも鶴丸を愛し、尽力されていた池江校長の死を悼み、その功績をたたえる学校葬は十五日しめやかなうちにも盛大に執り行 われた。十九日、県教委に先の陳情の主旨を重ねて陳情した。新たに出された「七高グラウンド」は国有地で、しかも鹿大生が使っているので使用不可能であった。ここでまた行き詰まった県教委は「それなら、いっそ、鶴丸を一中跡に移したら解決する。新設高校は一学年の定員を四五〇人から四〇〇人に減らしたら、現在の鶴丸高校に結構収容できる」と断をくだし、二十七日次のような教育委員長談話が発表された。

 

県教育委員会は、高等学校生徒急増対策に基づいて、明年四月から鹿児島市に新設する県立高等学校については、単に収容生徒数についての措置のみでなく、この際既設新設を問わず総合してつとめて質的向上をはかるべく、現在まで慎重に検討をかさねてまいりましたが、本日の教育委員会において新設の高等学校の校舎には現在の鶴丸高等学校の校舎をあて、鶴丸高等学校は鹿児島市薬師町の県有地に移転させることに決定。(以下略)

 

この委員長談話をうけて早速同日、生徒は体育館に集められ、約一時間にわたって従来の経緯と移転決定に従う旨が西村教頭から話された。生徒は拍手をもってこれに応えた。

 

八か月間にわたる激動の末鶴丸の行く道は定まったが、この間生徒は軽挙妄動することなく、常に変わりなくノートを広げ辞書をひもとき、いかなるときも授業が中断されることはなかった。

 

十月十二日、川内高等学校長であった久保平一郎氏(一中二六回卒)を校長として迎える。収まったかにみえた新設高校問題の余波はまだ続く。翌年入学の高校生(鶴丸では十七回生)をめぐって県当局は選抜の平均化をねらった総合選抜制を真剣に検討したが、時間的に余裕がなく実現されるには至らなかった。翌三月二十二日薬師町旧一中の地に新設校舎の起工式 が行われた。


リンク

甲南同窓会+サラト(平成18=2006)
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鶴丸36期同窓会+山形屋(平成27=2015)
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