「甲鶴戦のはじまり」については、各種書籍等によって事実関係などが異なる。
上の画像は、平成24(2012)年度に発行された甲南高校新聞における甲鶴戦関連記事で、次のようにある。
文献【1】
当時、ある先生が「甲南生元気出せよ!」と生徒を鼓舞。それを聞いた生徒会が鶴丸と交流戦をしようと思い立ち、生徒会自ら鶴丸に出向いてスタートさせた。最初のねらいは、“両校の親睦を図る”ことにあったため、勝敗にこだわりはなかったという。
おそらくこの記事は甲南高校百周年の平成18(2006)年に同窓会が編集・発行した記念誌『樟風遙か』の寄稿甲鶴戦(始まりの謎)(pp.135-136)を参考にしたものであろう。
寄稿者によれば、授業中に教科担任から「一中・二中戦」の話を聞いたことがあり、その後生徒会長就任、「一中・二中戦」の話を思い出し、生徒会顧問教師に交流戦の話を持ち掛けて鶴丸にも話をしに行ったが、協議続行となり任期切れ、次々期の生徒会長が第1回甲鶴戦を実現した。
前掲記事は、寄稿の要約として説明不足であるし、甲南の生徒が教師の叱咤激励から交流戦を思い立ち、鶴丸に出向いて即実現したかのような誤解を生じさせる文章になっている。
甲南高校百周年関連刊行物には、冒頭の甲南高校新聞が参考にしたであろう同窓会記念誌のほかに、学校側が編集した『創立百周年記念誌 甲南』があるが、これには甲鶴戦が始まった経緯などの記述はなく、第1回の甲鶴戦を報じた地元紙南日本新聞の写真が掲載されているのみである。そもそも同窓会記念誌は同窓生の寄稿集であり、学校側は査読に関与していないので、甲南高校の公式見解ではない。
なお、同じ甲南高校新聞であっても、平成20(2008)年の第222号に掲載された「特集 甲南生の羅針盤(コンパス) 甲南の目指すべき姿とは」と題した校長と生徒会長の対談記事には次の記述がある。
文献【2】
取材の中で「地球規模でものを考えるリーダーの育成」という甲南の教育方針を最初に提唱されたのが、平成十一年度から十三年度に本校校長を努められた(原文ママ―管理者註)東憲治先生であることが判った。そこで先生のお宅を訪問し、インタビューを行い、東先生がこの教育方針を提唱された理由や、その思いについて伺った。
≪中略≫
先生はこの教育方針以外にも今日まで甲南に伝統として引き継がれているものの始まりに、数多くかかわっていらっしゃった。例えば甲鶴戦(先生が鶴丸高校で教鞭をとっているときに先生が発案した)、甲南塾、体育祭の校歌合戦、朝読書。東先生は「地球規模でものを考えるリーダー」という言葉をご自身が体現されていたのではないかと記者は思った。
要するに、記事執筆者によれば甲鶴戦は東憲治氏が発案したというのであるが、当の東憲治氏は文献【2】より6年前に出版した自著において異なることを述べている。以下の引用部分は、平成12(2000)年に開催された第30回甲鶴戦開会式での挨拶を文字起こししたものである。
文献【3】
皆さん、おはようございます。甲南高校の東です。お陰様で、私たちのこの鶴丸、甲南スポーツ交歓会(正式名称は「甲南・鶴丸スポーツ交歓会」―管理者註)も、今年は第三十回という記念すべき大会になりました。
≪中略≫
幸運にも、私はこの大会の誕生の経緯を知る者の一人です。それだけに、「第三十回大会」ということに対しては、特別な感慨を覚えます。折角の機会ですので、この大会の誕生に関わるひとつのエピソードを紹介し、この記念大会の重みと今日一日の意義を考えることにします。
≪中略≫
我が校の選手たちの勇姿を全校生で応援する機会があったら、学校全体のアイデンティティはどんなにか高まることだろう。我々の学校生活の中にも、そんな日があってもよいのではないか。そんなことを真剣に考えた私たちの二人の先輩がいました。当時の両校の生徒会長です。二人は、中学時代の同級生。今は通う学校は違っていても、自分たちの高校生活はどうあればよいのか、二人で意見を交わしていたのでしょう。
≪後略≫
一方、鶴丸側刊行物には以下の記述がある。
文献【4】
七月十五日、第一回甲鶴スポーツ交歓会が行われた。本校と甲南高校は、以前から各部OBの間で交歓試合を行っていたし、古くは一中・二中の定期戦もあって、両校対抗戦の声は早くからあった。そこで両校が切磋琢磨して、スポーツの向上、友情の交歓を図り、両校校運の隆昌を記念して企画されたものであり、特に当時の生徒会長の甲南高校生徒会長への熱心な働きかけがあったことがこの交歓会の開催につながった。本年は、試合は四種目にわたり、バレー・野球は甲南会場で、バスケット・サッカーは鶴丸会場で行われた。バスケットは、本校がチームワークの強さを示して勝利を収めたが、野球は惜敗し、バレー・サッカーも敗退した。応援団も両校から多数参加し、親善試合の目的は達せられたと思われる。
甲南側文献とは逆に、鶴丸高校生徒会長が甲南高校生徒会長へ働きかけたことになっている。
それでは、両校および関係者以外の文献ではどうか。
文献【5】
交歓試合の話が両校関係者の間で持ち上がったのは一昨年。双方とも勉強や行事に追われて忙しく、今年六月初め、校長同士のトップ会談でようやくまとまった。≪後略≫
文献【6】
昭和四十六年四月、篠崎五三六の後を継いで同じく二中出身(二十三回)の村野守次が甲南高校九代校長に就任した。村野は七高、東大を経て昭和十九年から、母校二中の教壇に立ち、日本史を教えた。≪中略≫甲南高校長となっても燃える母校愛を持ち前のファイトで学校運営に、同窓会活動に取り組んだ。同窓会館(正面玄関左の別館のこと。―管理者註)の建築も村野の尽力に負うところが大きい。また野球など各種スポーツの昔の一中、二中対抗戦を甲鶴対抗戦として復活させたり、≪後略≫
『青春有情 第2巻』(鹿児島新報社編、昭和53(1978)年、鹿児島新報社刊)
文献【7】
甲南と鶴丸の文武両道のカラーに相違はないが、いろんな局面で競い合いながらも、両校の交流が乏しいのを憂えた教師たちは、71年から毎年4月末に「甲鶴戦」を企画。これは甲南と鶴丸のスポーツによる交歓会だ。09年現在、16競技18種目で鶴丸の19勝15敗とほぼ互角の成 績で、よいライバル関係にあるのがここからも窺える。
文献【5】【6】については、『樟風遙か』の寄稿と共通する内容がある。それは校長が対抗戦の実施を最終決定したという主旨の記述だが、学校行事に限らず、諸事案の決定や許可をする権限は職員会議ではなく校長が有するので、至極当然のことである。
なお、文献ページでも述べたが、文献【7】は関係者に取材したわけではなく、ネット情報(特にWikipedia)と著者の憶測で構成されており、資料的価値は極めて低い。同書で「両校の交流が乏しいのを憂えた教師たち」が「企画」したと記している根拠は不明であるが、文献【5】の「交歓試合の話が両校関係者の間で」の「関係者」を「教職員のみ」を指すのであると強引に解釈したならば、同書が南日本新聞記事を参考にしたと言えなくもない。
文献【2】についても同様に、「取材対象者の元校長が対抗戦を発案して当時の勤務先である鶴丸高校の生徒会長に勧めた」と、これも強引な解釈をしたならば、文献【4】の「当時の生徒会長の甲南高校生徒会長への熱心な働きかけ」と同じ見解であると読めないこともない。
結局のところ、小欄の見解としては、甲鶴戦が始まった経緯について言及されている書籍は複数あるが、編著者・取材対象者の立場、すなわち出身校や勤務校によって述べていることが異なり、特定できないということである。しかしながら、典拠や歴史的検証なく、各人がそれぞれ著書等で断定的に述べている(第○代校長が発案した、鶴丸の生徒会長が甲南に働きかけた、両校生徒会長が同級生だった等)。そしてそれぞれが、後年、正史として語り継がれてゆくことになってしまうのであろう。
(下の画像は、当欄の指摘を踏まえたであろう学校新聞記事)