文献【1】

翌年(昭和十七年―管理者註)三月になって海軍省から発表された真珠湾攻撃における特別攻撃隊の存在と特殊潜航艇に乗組んで、そのまま帰らぬ人となった九人の“軍神”の活躍は日本中を沸かせたが、それがやがて岩田豊雄(獅子文六)の横山正治を主人公とした小説「海軍」(【文献2】)となって朝日新聞に連載され、映画化されると鹿児島二中の名は、いよいよ全国に広がった。

≪中略≫

このころから学校は次第に戦時色一色に塗りつぶされ勤労奉仕、学徒動員と勉強どころではなくなっていく。教員たちにも軍事教練が義務づけられ、伊敷の十八部隊に交代で仮入隊して訓練を受けた。このときのエピソードを篠﨑五三六は次のように語る。「部隊には一中、二中出身の将校、下士官がたくさんいた。二中出身の兵隊さんたちは母校の先生たちが訓練を受けに来ているのを見ると駆け寄ってきて、ゲートルの巻き方から何から手とり足とり面倒をみてくれて、一中の先生がたをうらやましがらせた。一中出身者にはそんなことはなかったようだ。これが一中と二中の校風の違いですかね

『青春有情 第2巻』(鹿児島新報社編、昭和53(1978)年)


文献【2】

一中は秀才の集まる学校で、高校や海兵や士の入学率が高いので、評判だった。制の白風呂敷包みを抱えた、一中生の姿は、少羨望の的だった。そこへいく と、二中は、腕白収容所のようにいわれた。

【前後参照】『海軍』(岩田豊雄、平成13(2001)年、中公文庫)


上記文献2件は、甲鶴戦当事者である両校の旧制時代における校風や世間的評価を端的に表したものである。

鹿児島県の高等学校は「見事」に序列化・ピラミッド化されているが、これは決して戦後の新制で始まったのではなく、旧制時代からある(冒頭の引用)。旧制における鹿児島市内の県立中学校は、甲鶴戦当事者である両校のみで、いわゆる「ナンバースクール」であった。実際の創立年はナンバーどおりではないが、この旧制時代におけるナンバーが県民の意識に学校の序列として形成され、現在まで受け継がれていることは間違いないだろう。そして戦後の新制においては、県教委、高校受験学習塾、このようなブログ(公立進学校と私立文理科・特進科のレベル関連付け。ブログ管理者の子息は後者。)によって固定観念の醸成に拍車がかかっている。

そんな両校であるが、実は、尋常中学校・尋常中学造士館時代も、一中・二中時代も、生徒間には対抗意識があり(鹿児島県教育史)、現在まで続いているが、それがプラス(甲鶴戦)になったこともあれば、マイナス新設校問題になったこともある。

その甲鶴戦という一大行事が始まって40数年を経て、甲鶴戦に対する両校生徒の取り組みは年々熱気を帯びている。その熱気は、閉会式後のYOUNG MAN合唱や野球場ダイヤモンド内の民族大移動などに象徴される。

新年度・新学年最大の学校行事である甲鶴戦に燃えるからこそ、学習(受験)や次の学校行事へも新たな気持ちで取り組めるのであるから、教師には、生徒を押さえ込むことに精力を出すのではなく、甲鶴戦の日くらいは生徒が少々ハメをはずしても大目にみる余裕がほしい。押さえ込むことで学校統制を図ろうとする手法特に体育科教諭は、西暦80年代に終わっている。ただし、教師側が大目にみるためには、生徒側の自律も必要で、その先導的役割を担うのが生徒会執行部であることは言うまでもない。思いがけない事件や事故で行事が変更になったり、あるいは終了することはありえる。外部(特にマスコミ)の批判にさらされることもある。教師側(そして県教委)はそういった事態を怖れる。また、両校の卒業生が第1回甲鶴戦開催にこぎつけた労力や積み重ねてきた信用を無にすることにもなる。

最後に。公立高校募集定員は一学年約13,000名であるが、甲鶴戦に参加できるのは、そのうち320×2=640名の約5%、通信制を除く私立の定員約6,100名を入れると約3.4%である。両校生徒には、このことも頭の片隅に入れておいてほしい。

リンク

甲南同窓会+サラト(平成18=2006)
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鶴丸36期同窓会+山形屋(平成27=2015)
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