樟風遙か 甲南高等学校創立百周年同窓会記念誌 |
■甲鶴戦(始まりの謎) ○○○ ○○ (甲南二十三期)
甲鶴戦の事の始まりは或る先生の昔話に依るものでした。その先生とは地理のA先生(当時は有りませんでしたがケンタッキーフライドチキンの人形に似ていらっしゃいました)。先生は普段とても優しい方でしたが一旦怒り出すと「な、なにぃ~この人」と思うくらいジキルとハイドる方で、できの悪い僕などはよく怒られたものです。授業中いろんなおもしろい話をして下さる先生で、その中のひとつに甲鶴戦の前身とも言える一中、二中戦の話が有ったわけです。
二年生になって僕は生徒会長を一年務めました。週番制度の廃止、 生徒会の任期のこと、他にもいくつかの事に取り組んだ覚えはあるのですが何だったのか記憶が定かでありません。しかしこの甲鶴戦の案は代議委員会、生徒総会を経ることなく話が進んで行ったように記憶しています。
ある日僕は一年生の時の担任、英語のB先生に呼び出されました。余談ですが先生は当時多かった退学処分に「退学させることは真の教育ではない」と最後まで反対された方であり、生徒会選挙の折「○○、ワイで良かが、ワイが出れ」と独断で指名した先生でもあります。そのB先生が「今の甲南は元気がなかがどげんすれば良かね○○、こいでワイが学生運動でんしたぎぃな、こん学校はチンガラッじゃっど、ブツブツ~」みたいな事を教官室でおっしゃいました。その当時の僕は学生運動に傾倒するほど政治的思想も主義も理念も不満すら持ち合わせていなかったので「先生、の話ですか?」みたいな感じで逃げ帰って来ました。でも先生のお気持ちはよく理解できました。僕も甲南が大好きでしたから。
しばらくしてふとA先生のあの話を思い出しました。「そうだ!甲南にもっと元気と誇りを取り戻すために一中、二中戦を復活させよう」直ぐさま生徒会担当で世界史を教えていらしたC先生に相談。先生の方から連絡を取って頂き、T(故人)、I、両副会長以下執行部全員で鶴丸に行きました。鶴丸の生徒会長は有明町出身のK君。「早慶戦やオックスフォード、ケンブリッジ戦のような対抗戦を持ち、お互い切磋琢磨しよう」的な事を僕が力説して話は開催に向けて協議を続けるということになりました。
さてその次どうなったかと言うと記憶がない。それもそのはず、僕の任期はここら辺で終わってしまったらしいのです。 直ぐさま次の生徒会長のY君と副会長のK君に電話してみましたが「何回か鶴丸に行ったが具体的に何かしたという記憶はない」とのこと。その次の生徒会長、N君に連絡してみると「僕は甲鶴戦の実現を公約に当選し、任期中に第一回目を開催していますが、エピソードめいたことはありません」と言う返事。とどのつまり我々生徒は立案しただけで決定は当時の村野守次校長、 執行はH先生をはじめとする諸先生方が行なったものと思われます。
その後東京の大学に進学した僕は、神田学校(関東二甲会発祥の地で当時の事務局長、M先輩の事務所)で甲鶴戦の記事を読みました。そこには「エリート意識丸出しの甲鶴戦・・・・・・」のような見出しがあり、悲しい気持ちになったことを覚えています。
最後に、今回寄稿するに当たって一中、二中戦がどの様なものであったのかが気になり出し、一期のM先輩に伺ったところ戦時中でそんなものはなかったし話を聞いた事もないとのこと(えっ?)。二中三十六回で関東鹿児島二甲会名誉会長のE先輩に伺ってもご存じないとの事(ええ~っ?)。もしかしてもしかすると、村野校長先生が甲南高校同窓会だよりに「甲鶴交歓試合の起源」と題して寄せたエッセイに記されている一中との柔道の定期戦が実はそれで、僕が思い描いていた一中、二中戦なんてものは最初っからなかったのではないか?(えええ~っ)。
(後略)
■編著者 甲南高等学校創立百周年記念事業同窓会実行委員会 ■出版年 平成18(2006)年11月 |