創立五十周年記念誌 甲南

※すべて原文ママ。

甲南の校名問題

旧二中教頭 ○○○○

(前略)

鹿児島市では各旧制中を高校へそのまゝ切り換えんとする独立論と県立の全中等学校の合同論と対立したのであるが遂に後者の論に落着し旧工業を一部、二高女を二部、一高女を三部、二中を四部、一中を五部、履正中(夜間中)を六部とし、総称を県立鹿児島高等学校と称した。部名については初め一中を一部として順次二中、一高女、二高女、工業夜間と数字をつけて名付ける予定であつたが、東京の辺りでは山の手は富裕階級が住んで居て一種の封建的な気風があり鹿児島でも山の手にある一中を一部として呼ぶのは鹿児島の封建思想打破を主目的として来て居る立場上面白くないと或る方面からの勧告があつてそれでは逆にしたらと云うので工業から一部を始めた処、無事案が通つたとの事である。然し教員の交流、人件費の節約教材の節減等より考慮せられた総合高校も職員二百余名生徒五千名では動きがとれず、校長を引き受ける人がなく欠員のまゝ、二十四年の正月を迎えた。丁度此の頃実業高校の新興が叫ばれ、それと共に県立鹿児島高校の存廃論が起り、各部の連絡協議会でも屡々議題となり、別の統合に関する委員会を組織して研究を進めることになつた。工業の独立については問題は無かつたが、外の部をどうするかが世論を賑わし、旧一中、二中及旧一高女、二高女の統合案、旧一中二高女及旧二中一高女の統合案が出たが何れも成立せず、遂に人員の適正、校舎の問題より旧一中、一高女と、旧二中、二高女の統合に落ち着いた。すると校名問題が期せずして起つた。

 

各部の連絡協議会では県立鹿児島高等学校を襲名する事は、新たに出来る各校とも希望したので何れにその名を残すか大きな問題となり、之を襲名すると之が将来県立鹿児島高等学校の本統を嗣いだ様な誤解をあたえるから之はお互いに遠慮する様にとの事で各部に於ては夫々委員を出して各自別案を研究する事になつた。旧二中二高女に於ても夫々委員を出す事になり職員、同窓会、父兄後援会より各二名計六名、二校合せて十二名が集まり、之に各部長が参加し、前の協議会の協定の線に沿い案を練つた結果、荒田、麑城第二甲南等の校名の中から校名の名が選に入つた。蓋し、甲突川の南の意もあり亦、甲東と南洲の両先人の名に通ずる事も考えられると云うので之に一決して学校管理課に届け出でた。処が一中、一高女でも校名問題で種々議論が沸騰し中央の案が出たが之は封建思想を代表するもので自分独りが県下の学校の中心を自認するものであるから不可と抑えられ、第一は民主主義の時代には不可と云う事となり、遂に鹿児島高校の名をとり、県教委に届け出でた。処が先に協定に随い、「甲南」名を届け出でた旧二中、二高女関係の委員は之に憤慨し再び協議を始め、県立鹿児島高校の名は我等も喉から手が出る程欲しい、之を敢えて我慢して甲南の名称をとつたのは先の約束を守る為であつた。旧一中一高女関係の委員で約束を破るならば自分達も独自の考えで行こう、と云うので、再び協議会を催し甲南の名を破棄し改めて県立鹿児島高等学校の名を採用すると決議して父兄後援会長の勝目市長や同窓会関係者約二十九名同道して県の各課に交渉した。県教委でも非常に困惑し県立鹿児島高校が二つ出来ては四月一日附の辞令が準備も出来ない、少くも三月二十五日迄にはもう一度よく二校関係者で話合い校名を自主的に決定してもらいたいとの事であつたので再び旧一中、一高女関係者と話合い、お互いに前の協定を尊重する事になり「甲南」の名を再び採用する事になり三月二十四日を以て県教委に届け更に将来県立高校には「鹿児島」の名を付ける事を注意して貰いたいと要望し之が決定した。一方旧一中一高女関係は中央、第一等の案が再び起つたが遂に名案なく、暫定の名として鶴丸城下の鶴丸を採用する事になつた。

(後略)

甲南高校新聞 第216号(平成18年3月刊)

昭和二十三年頃、各地で新制高校の開設が行われるなか、鹿児島市では各旧制中を高校へそのまま切り替えようとする独立論と、県立の全中等学校の合同論とが対立していた。

 

結局は後者の論に終着し、旧一中と一高女、旧二中と二高女の統合が行われたが、その際に校名問題が生じてしまった。

 

両校は、「県立鹿児島高等学校」の名の襲名を望んだが、これを襲名すれば、将来その学校だけが「鹿児島県」の由緒ある血統を継いだ学校であるとの誤解を与えてしまう。このようなことが何度も協議で話し合われた。その結果旧二中と二高女は、甲突川の南という意味と、甲東(大久保利通)・南州(注)(西郷隆盛)の両先人の名に因み「甲南」という名前を採用することになった。

 

(注)原文ママ。正しくは南

創立百年 

「鶴丸」という校名は最初からすんなりと決まっていたわけではない。統合が正式に決まったとき新校名をどうするかという県からの下問が両校にあり、職員の間でいろいろの案が出され、論議も熱を帯びたものであった。「第一」・「中央」・「東」・「朝日」・「鹿児島」・「造士館」といったようなものが候補に上がったが、特殊、選良を意味するものは良くないと、軍政部・県当局からは採用されなかった。校名問題が暗礁に乗り上げかけたところへ、第七高等学校の廃止により、七高ゆかりのものが次々に消えていくのを惜しんで、何とか七高ゆかりのものを残そうとしていた当時のPTA関係者の中から、「鶴丸」という案が寄せられた。もちろん旧藩主島津氏の居城、鶴丸城からとられたものである。「鶴」という字が当用漢字にないということで、当初懸念されたが、藩学の伝統を継承し、平和と穏健を象徴して、しかも鹿児島を代表する風格を有するとして、「鶴丸」の名称が新しい高等学校名として正式に決定したのである。

はろばろと 第九号

記念公演「アメリカと私」

千葉大学教授 鵜木奎治郎

鶴丸高校でだまされたアメリカ軍

さて、それから学制改革の波が訪れます。アメリカはですね、鹿児島を目の敵にしていたと申し上げましたね。だから男尊女卑で睨まれていると思い込んだ鹿児島人は先まわりして姑息な改革をいろいろやりました。まず一中、一高女、二中・に高女という明らかに序列のついた名前を逆にしまして、県立工業学校を、鹿児島県立高等学校第一部と恭しく奉りました。この順序でいきますと、二高女が二部、一高女が三部、二中が四部、一中は最後の五部になります。あの校長室の壁を見てごらんなさい、沿革の票に鹿児島県立高校第五部と書いてありますよ。アメリカはすぐこのペテンに気づいたようです。何だ、順序を逆にしただけではないか、ダメだ、ダメだと。しかしですね皆さん、よその府県に行ってごらんなさい。仙台に行きますとね、宮城第一高校、宮城第二女子高校といった具合で、男女共学でないどころか、一、二、三とちゃんとついております。埼玉県も同じく、浦和高校は男子校、浦和第一女子高は読んで字の如く、しかも第二女子高はないんです。だから都道府県によってですね、扱い方が違うんですよ。東京はどうであったかと言うと、やはりアメリカが一、二という名前ではダメだと言うんで、都立一中は、日比谷高校と地名を使って名前を変えたわけです。だから東京方式であれば、ここは鶴丸高校ではなくて薬師高校です。中央高校は加治屋高校、甲南高校は荒田高校となります。だからネーミングはもうでたらめになりました。ここが非常におもしろい所ですが、アメリカが中央集権国家じゃないという証拠になりました。ステートどころか地域によって指導方針が違うわけです。例えばカトリック系のアメリカ軍が占領したところは男女別学が当たり前だというわけで、何のおとがめもありません。アメリカ人は本質的には大まかだったことになります。だからここの鶴丸高校という名前だって、何でも当時の七高の教授だった後藤先生という心理学の先生がつけたネーミングだそうですが、鶴丸城という名前が封建君主の島津藩に由来するということを鹿児島在駐のアメリカ軍が気づかなかったんでしょう。もっと深刻に考えますと、鶴丸なんてアメリカが目の敵にしていた旧制七高の居城だったのです。気づいていたらカンカンになったかもしれませぬ。鶴が飛んで来るとは平和的でよろしい、ほめてつかわすと、それぐらいでおしまいだったらしい。私も詳しいことはわかりません。これぐらいの経由で決まった校名ですから、皆さんもあまり鶴丸、鶴丸と騒ぎ立てるのはアナクロニズムです。

(後略) 


リンク

甲南同窓会+サラト(平成18=2006)
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鶴丸36期同窓会+山形屋(平成27=2015)
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