甲鶴戦の競技種目のうち初期から数度の中止がありながら行われているものとして、野球がある。当サイト内の競技種目別記録でも明らかなとおり、鶴丸高校野球部が圧倒的な勝さをみせている。
両校には共通人物がいる。それが「中馬庚」(ちゅうまん・かなえ)。中馬は明治期に米国から入ってきたベースボールを、日本で初めて「野球」(やきゅう)と訳した人物である。日本国内の一部には、俳人でベースボールを愛した正岡子規こそが「野球」の名付け親であるとの主張があるが、これは、子規が極一時期、俳人としての雅号に本名の「昇」を捩った「野球(の・ぼーる)」を数度用いたことによる誤解である。
さて、中馬庚と両校にどのような共通点があるのか。
そのひとつが、教師としての経歴である。中馬は鹿児島市に生まれ、三州義塾(昭和期には既に廃校)を経て第一高等学校(一高。現東京大学の一部)を卒業し、鹿児島で教鞭をとった。第一中学校(明治39年以降の県立一中の前身)に着任、兵役を経て中学造士館(県立二中の前身)教授、中学造士館が廃止され第一中学校分校に改組後は分校長、分校がいわゆる二中となってからは二中教頭を3年間務めた。その後は糸魚川中学校(新潟)校長、新潟中学校校長、大館中学校(秋田)校長、脇町中学校(徳島)校長を歴任した。鹿児島時代は総じて、前身を含む二中で教師生活を送ったと言える。両校の沿革についてはこちらを参照。
中馬は教師生活において授業といわゆる校務分掌だけをやっていたわけではない。なんといっても日本で初めてベースボールを野球と訳し「やきゅう」と読ませ、日本初の野球専門書その名も「野球」を一高野球部時代に出版し、数々の野球用語を生み出した人物である。教師としても野球に関与した。鶴丸高校が百周年事業で刊行した「創立百年」は、「中馬が第一中学校に赴任した年に野球部が創部し、中馬が創部に関わったことは間違いない」という主旨のことを述べている。同主旨のことを一中卒の作家城井睦夫は著作『“野球”の名付け親 中馬庚伝』(ベースボール・マガジン社、昭和64=1989年)でも述べているが、中馬と一中野球部の関係を裏付ける資料は発見されていない。二中では教頭であるとともに野球部長を務め、七高(現鹿児島大学の一部)主催の野球大会で二中野球部を優勝に導いており、写真も残っている。
なお、甲南高校の「創立五十周年記念誌」には、「二中野球部の創設は大正九年であり、」(37ページ)とあるが、これは誤りである。二中の前身第一中学校分校にも野球部はあり、中馬が指導し、本校とは別に分校として県内の各種野球大会に出場し、優勝したこともあるほか、更に前身の中学造士館時代も野球部があり、分校時代同様に各種大会に出場した。中学造士館や分校時代の試合結果(一部)については、「甦る熱球 青春の神戈陵~鹿児島県立川辺高等学校創立百周年記念戦後野球部復興史~」(川辺高校野球部OB会、平成12=2000年)に記されている。ただし、中学造士館が改編されて第一中学校分校となったことついては言及されていない。
冒頭、正岡子規について触れたが、「正岡子規が野球の名付け親である」との誤解が鹿児島県のみならず全国でまかり通っていたために、「中馬庚」という人物が認知・評価される機会に恵まれなかった。東京には上野恩賜公園野球場があり、平成18年に正岡子規記念球場の愛称が付けられた。中馬庚についてはどうか。彼の名を冠した球場は無いが、鴨池市民球場の入場口左脇には彼の胸像が設置されている。鹿児島市にはもう一箇所、鹿児島県立鴨池野球場があるが、これはいわゆる「太陽国体」(昭和47=1972年)のため昭和45年に新造されたもので、市民球場は昭和3年からあり、鹿児島県における野球場の濫觴である。よって、(設備等には恵まれていないが)市民球場は中馬庚胸像設置場所としてふさわしい。
ところで、甲鶴戦の野球は現在、県立球場で行われている。例年、野球は最終競技として全校応援がなされる。第42回大会は地元民放局の開局記念事業でプロ野球の試合を翌日に控え県立球場を使えなかったため、市民球場で行われた。これは極めて異例であった。実は中馬は昭和7(1932)年3月21日に逝去しており、甲鶴戦の両校関係者誰も気付いていなかったが、偶然にも、没後八十周年記念試合が胸像のある市民球場で行われたことになる。
提案がある。中馬がのちに校長を務めた徳島県立脇町高等学校と同・城南高等学校の両校野球部による試合は、「中馬野球大会」と称し、明治期のスタイル(ユニフォームなど)で行われている。そこで、甲鶴戦の競技種目の一つである野球を「中馬庚杯甲南・鶴丸野球大会」と名付けてはどうだろうか。甲鶴戦の両校は、中馬庚が教師・野球部長として最初に指導した中学造士館(のちの二中)と一中の後身である。率先して郷土の先人にして、野球の名付け親たる中馬庚を顕彰し、語り継ぐ義務があると思う。
【追記】
中馬庚の甥に、二中卒にして二中教諭、二中最後の校長、甲南高校第四代校長を歴任した、篠崎五三六さん(百歳没)がいる。