生徒会執行部は中間管理職
甲鶴戦の準備・運営は両校生徒会執行部によってなされる。生徒会執行部は、各校の生徒手帳における規定文言は異なるが、総じて、民主主義に基づいた生徒全員による投票で生徒会長が選出され、会長が同志を集め(学校によっては執行部員も選挙選出)、学校長から任命書を授受することで成立する。
大雑把に言い表せば、生徒だけの組織としてみると最高機関であるが、学校全体でみると中間管理職である。体育会系・文化系部活動や同好会からは突き上げられ、学校側(教職員)からは何だかんだ理由を付けられては押さえ込まれる。生徒会長や執行部をリコールする制度があったかどうかは記憶に無いが、両校の百周年記念誌を読む限りでは、リコールされた事例は無い模様である。
君はなぜ生徒会長になるのか
会長選挙の演説でよく聞かれるのが「僕/私は○○高校をこういう学校にしたい」「明るい学校にしたい」「○○生としての誇りを取り戻して自主性のある学校にしたい」「○○高校には改革/革命が必要だ」「国旗国歌に反対し、地球市民になろう」などという、国政選挙演説並みの歯が浮くような台詞や左派政党の下部組織であるが如き文言である。そして選挙後の執行部運営は例年通りであったりする。生徒会長が心の底から生徒全体のことを考え憂慮しあるいは夢を抱いていたとしても、それとは無関係に学校側の都合で学校行事が無くなったり、規則が変わることはよくある。
一方で生徒本人の都合、すなわち、単に会長になりたかったり、推薦狙いである場合も無いわけではない。具体的な公約(前述のとおり、大抵は学校運営上の都合で各種行事や規則が変えられるが)なしに綺麗事や建前を並べ立てている場合は要注意である。
また、学校側の都合で会長候補を仕立て上げる場合もある。具体的には、生徒会執行部顧問教諭の独断か、顧問が生徒指導部あたりから仄(ほの)めかされて生徒本人を唆(そそのか)してその気にさせるといったことである。学校によっては生徒会顧問が日教組/高教組の組合員であったりすると、彼の息がかかった生徒が(他に候補者がいなければ)政治思想を隠して会長選出される虞もある。
そのほか、前執行部(の一部)が公認候補を物色し、会長にする場合もある。
これらの諸事例には、立候補者が皆無であるという事態を防ぐ意図が含まれていることもある。
君たちはなぜ執行部役員になるのか
執行部役員となった生徒たちは、学校全体のために汗水を流したいと思っているか。
執行部役員は、選挙の場合もあれば、会長・副会長が有志を集めて組織する場合もある。甲鶴戦にかかる両校は会長・副会長のみ投票選出であるので、後者に属する。「有志」と記したが、有体に言えば「友達」「友達の友達」である。政権与党の粗探しをし発言を曲解して大臣の首を取ったり事件を捏造することが仕事になっているマスコミ(「社会の木鐸」は死語。)的な表現をするなら「お友達執行部」だろうか。
時代で変遷する生徒会執行部の役割
判りやすい(と管理人が勝手に思っている)古い例を挙げれば、安保闘争・学園紛争時の生徒会執行部がそうかもしれない。全共闘の力が各都道府県の進学校に及び、会長や執行部が洗脳され、あるいは洗脳された生徒が他の生徒を煽って民主的な方法で会長・執行部になったことがある。甲鶴戦にかかる両校の創立記念誌を読む限りでは、両校がそのようないわば学校危機に陥った事例は記されていない。
平成以降は政治的イデオロギーが争点ではなく、例えば学校行事拡充(修学旅行)が会長候補者の公約になるなど、学校生活に重きを置いているようである。
命もいらず、名もいらず・・・・・・
功名心や自己都合、学校都合で会長や執行部役員になったとしても、公の精神と感謝の心が無ければ仕事を続けることは難しい。もちろん、会長や役員は成績優秀者が集う傾向があるから、要領よく淡々とこなすことにはなるだろうが。
自己実現のためであってもよい。会長・執行部役員として学校長から任命されたからには、心の片隅にでも公の精神と感謝の心を持ってほしいと思う。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」(西郷南洲遺訓)
これは薩摩の先人で無私の人であった南洲翁が山岡鉄舟翁を評した言葉と伝えられている。生徒会執行部は、部活動のような自己実現の組織ではなく、生徒全体のためにある。自己実現のためであってもよいが、会長・執行部役員として学校長から任命されたからには、公の精神と感謝の心、そして上記南洲遺訓を忘れずに、務めあげることを期待するものである。