西郷隆盛像   大久保利通像
昭和12(1937)年 製作年 昭和54(1979)年
安藤照 製作者 中村晋也

没後50年記念。

安藤は鹿児島二中=現・甲南卒。

大東亜戦争中の金属供出時にも

県民の反対で銅像が守られた。

備考

没後100年記念。

中村は銅像製作当時、鹿児島大学

教授。

 

甲鶴戦当事者である甲南の校名は「甲突川の南に西郷南洲と大久保甲東の生誕地あり」が由来である。今回はその南洲翁(以下西郷)と甲東公(以下大久保)について。

「学問は伊地知サァに及ばず、武術は俊斎どんに劣り、智恵弁舌はおい(大久保)におとっていなさるのじゃが、人物の出来というものはそれとは別と見ゆる。吉之助サァのよな人を、英雄の天質ありというじょじゃろうなあ・・・。」

これは海音寺潮五郎さん(鹿児島県出身、旧制加治木中学校卒)の小説「西郷と大久保」の一節で、大久保の独白である。海音寺さんは他に長編の「西郷隆盛」を記しているように、西郷を描くことを人生の課題とした。鹿児島県立図書館には海音寺さんの書斎を再現し著作を集めたコーナーもある。

西郷と大久保については、司馬遼太郎の小説『翔ぶが如く』もあり、NHK大河ドラマでも放映された(平成2=1990年。西郷:西田敏行、大久保:鹿賀丈史、脚本:小山内美江子、音楽:一柳慧)。

鹿児島県が小中学生用に製作している道徳教材に「不屈の心」や「郷土の先人」などがある。当然のことながら西郷と大久保について述べられた項目もある。概して、青少年期の二人が年は違うけれども「友情」を育み互いに刺激を与えながら成長していったというような内容を強調し、明治政府成立後の離反については触れられていない。「友情」と「 」付きで記したのは、西郷と大久保の二人には最初から友情なんて無かったという見方もあるからだ。

某年某月、管理人は西郷南洲顕彰館を訪れた。展示を見た後、帰り際に館長と話をする機会を得た。内容は西郷と大久保の実像についてが大半であった。館長には「大久保の銅像は鹿児島に建てるべきものではない」との持論があるが、実際、冒頭の表のとおり、大久保の銅像は西郷銅像に遅れること42年後に建てられており、これが鹿児島県民の一般的な対大久保観である。約1時間ほど話をしたが、最後に一冊の書籍を頂いた。公益財団法人西郷南洲顕彰会の定期刊行物『敬天愛人』第三十号(平成二十四年九月二十四日)。その中で館長は、現在展示中の資料1点について由来・経緯などを詳説し、西郷と大久保の関係性についても綿密に考察している。以下の枠内は最低限度の引用なので、興味のある方は是非とも当文献の全文をお読み頂きたい。

鹿児島裁判所裁判官の上表密書

政府の西郷暗殺「陰謀の証」首謀者は法に照らし処すべし』(pp.181-200)

大久保は西郷下野後、親西郷派とみられる政敵たちを次々、謀略で誘い出し、武力討伐している。明治七年の佐賀の乱では、以前から佐賀の征韓党を討つべしと建言していた岩村高俊(土佐出身)を佐賀の県知事として送り込んだ。露骨な人事的挑発であり、佐賀氏族を説得するため下った江藤新平も抗せざるを得なくなった。萩の乱(明治九年)では、西郷のニセ手紙を示して決起を促し、討伐した。西南戦争の際には、もっと直接的に瓦解工作と刺殺綿密な計画を立て、私学校党を激高させた。明治八年の江華島事件の例を引くまでもなく、外交においても相手を陰湿な手段で挑発し武力で叩いて目的を遂げる―これが大久保政治の常とう手段である。

盟友であったはずのあの西郷と大久保がなぜ西南戦争で戦ったのか。この点に関して。これまで史書も伝記類は明解に説明できなかった。それは我々が長い間、両者は幼友達で盟友、親しい兄弟のような間柄であった、と思い込んできたためである。それは文久二年(一八六二)六月、大久保が西郷と耦刺(ぐうし。互いに刺し違えること―サイト管理者註)しようとした有名な須磨の浜の一件が美談とされてきたことに理由がある。

「須磨の浜の一件」について。奄美大島に蟄居していた西郷が島津久光(お由羅の子。斉彬とは異母弟。)から呼び戻されたが、久光の率兵上京計画(公武合体運動)について西郷が反対し、以後、久光と西郷に確執が生まれる。須磨の浜における耦刺はこの後のことで、概略はこちらのサイト(個人ブログ)を参照されたい。ブログには「西郷と大久保の友情を伝える有名なエピソードです。」とあり、これは前述の通り鹿児島県民のみならず一般的な美化された西郷・大久保観であるが、館長は異説を述べている。

西郷没後まもなく、大久保は重野(安繹-やすつぐ-。鹿児島県出身の漢学者。東大文学部教授。―サイト管理者註)を招き、「世に西郷は誤解されている。自分には文才がないので、お前が代わって西郷の墓誌を書いてくれ」と依頼した、そのとき、重野が開口一番、質問したのが須磨の浜の一件であった。当時、在京の薩摩関係者の間で、「本当の讒言者は誰か」について疑惑があり、大久保が疑われていたことを暗示する。重野はその後『参議兼内務卿贈右大臣 大久保公家傳』にもこの耦刺を取り上げ、「公與隆盛、親如兄弟、死生以之」と記した。つまり「二人は死生を共にしようとしたほど親しみ合った兄弟の間柄」であったと賛嘆したのである。これが「史実」として定着した。

『「史実」として定着した』例=鹿児島県の道徳教材「不屈の心」「郷土の先人」(前述)

西郷・大久保は兄弟同様の間柄であったと称揚した重野だが、須磨の浜の真相については、なお疑いを持っていたようである。なぜなら後年、「自分に縁故」で「君側の尤も勢力のある人物」が島抜けを極度に恐れていた様子を次のように語っているからである。

(「重野安繹演説筆記」引用部分省略―サイト管理人註)

文久三年三月当時、「君側の尤も勢力のある人」とは誰か。大久保利通(御小納戸頭取)、小松帯刀(御側詰・御側役兼務)、中山仲左衛門(御納戸奉行兼御小納戸頭取)らが思い浮かぶ。この中で重野と「縁故がある」人物となれば、大久保をおいて他にない。

その大久保が西郷の島抜けを警戒した理由は何か。既に述べた通り、自分の讒言が露見するのを恐れていたからにほかなるまい。西郷がいつ島抜けしてきて、事が露見するか、不安から逃れられない様子がうかがえる。しかも、重野が「西郷の身が余程危ない」と直感しているのだから、尋常のことではない。

薩摩に限らず日本では古来、遠島処分は放流と定まっている。しかも、最も遠い沖永良部島に流刑したうえ、牢に囲い込み、昼夜交代の牢番を置くというのは、異例のことである。厳重な監視下に置きながら、それでも安心せずに脱獄まで心配していたことは、西郷が島抜けして帰り、讒言を咎められるのを極度に恐れていた事実を物語るであろう。

大久保はなぜ、幼友達で先輩であり盟友を陥れようとしたのか。恐らく大久保には、西郷の徳望、鋭い政治的資質と識見、外交感覚と手腕、幅広い人脈など、すべてがまぶしかったはずである。西郷がいる限り自分は、精忠組の中では常にナンバー2でしかない。頭脳明晰な大久保だけに、我慢ならなかったはずである。久光の西郷嫌いを利用し、追放をはかったとみて差支えあるまい

このあと、筆者(館長)は『大久保が「耦刺」と言ったことは、自ら語るに落ちた感がある。(中略)少なくとも生涯で三度、この手で相手を脅した。』として、『三度』の概要を記し、三度目については、『国会開設を恐れた大久保』との小見出しで『この大久保の西郷追い落としの最終幕は、当然西南戦争である。まさに政府による計画的、組織的陰謀である。単に私的なジェラシーからではなく、権力の座を脅かす存在としての政敵西郷の最終追放を策した。』と考察している。

リンク

甲南同窓会+サラト(平成18=2006)
甲南同窓会+サラト(平成18=2006)
鶴丸36期同窓会+山形屋(平成27=2015)
鶴丸36期同窓会+山形屋(平成27=2015)