土・水戦 |
≪廃止≫ |
■学校沿革概要 茨城県立水戸第一高等学校 明治11(1878)年 埼玉県第一尋常中学校 →茨城県尋常中学校→茨城県立水戸中学校 茨城県立土浦第一高等学校 明治30(1897)年 茨城県尋常中学校土浦分校 →茨城県立土浦中学校 ■定期戦沿革概要 昭和40(1965)年5月15日 第1回開催 昭和52(1977)年5月12日 廃止(注1) 水戸一高百年史(昭和53=1978年) 定期戦の第一回は四〇年五月一五日である。当初硬式野球部だけの定期戦として開催され、土浦一高側が大変熱を入れて歓迎式を土浦駅頭で開いた。試合は土浦市営球場で行われ、4-1で敗れた。知道(水戸一高の学校新聞・年誌に用いられる名称―管理人註)編集委員会はクラブ不振打開策として呼びかけ、四三年から全校生が参加するようになり、会場を交互にして開き、四六年には学校行事となり、四八年からは「定期戦交歓会」と改称され、にぎわった。しかし、国大協(国立大学協会―管理人註)による共通一次テストを控え、土浦側が文化祭を五月にくり上げたため、五三年は実施不可能となり、代わって、本校では学年別クラスマッチを「スポーツ・フェスティバル」として五月二四日、笠松運動公園で開いた。ソフトボール、テニス、卓球、バレーボール、陸上競技の五種目で試合が行われ、好天にも恵まれ、成功をおさめた。 朝日新聞記事(平成20=2008年) 「土浦一の素顔~新都市物語 二つの一高」 土浦一高から北東へ約50キロ。水戸一高が今春、約40年ぶりに授業の枠組みを変えた。65年から続けてきた65分×5コマの授業は、今春から55分×6コマにした。短時間で効率よく覚える英語教諭らの50分支持派と、思考に長時間を要する数学教諭らの65分派を折り合わせた形だ。受験シーズンが近づく9月の学苑祭(がく・えん・さい)は、6月に繰り上げた。「本校を見習ったのでしょう」。1897年、水戸一の分校として誕生した土浦一側は、「本家」の動きをそう理解する。 両校は65年以降、「土水戦(ど・すい・せん)」という運動部同士の定期戦を5月に開いていた。土浦一の卒業生には「校風の違いを肌で感じてよかった」という評価もある。 共通一次試験の導入を翌年に控えた78年、土浦一は9月の一高祭を6月に前倒しにした。一高祭には大がかりな準備が要るため、夏以降、3年生を受験に専念させる狙いだった。それに伴い、土水戦の9月開催を提案した。 「受験のために伝統行事を変えるのは、情けない」。生徒会同士が協議する場で、土浦一は水戸一から一喝された。以後、土水戦は中断したまま(注2)だ。 土浦一の元教師(73)は「あれが両校の分岐点だった」と話す。このころを境に土浦一は受験戦争を勝ち抜くための道を突き進んでいった。 文化祭の時期変更。授業時間の変更。水戸一の受験シフトは、まるで30年前の土浦一を見ているようだ。 水戸一側は「20年も前から議論してきたこと。土浦一を手本になどしていない」と平然と構える。だが、東大合格者では88年以降、本家が分家を上回ったことはない。08年にはこの半世紀で初めて、東大合格者が8人と2けたを割った。同校のベテラン教師は「今回の改革を後押ししたのはそのショックの大きさだった」と話す。 ただ、130年の歴史を持つ水戸一の卒業生は、土浦一より4千人近く多い3万2千人。政官財、法曹、学術、芸術など幅広い分野で活躍する。 「人材輩出では、まだまだ勝てない」。土浦一OBの学習塾経営者(51)はそう認める。 水戸一の○○○○校長(59)の頭の中には「東大現役合格15人」という数字がある。だが、数値目標として掲げはしない。「押しつけたら生徒が萎縮してしまう。伝統である自由と自主性を尊重したい。自己矛盾は感じるがね」。130年の伝統と改革。そのはざまで深く悩むのは、県南のライバルが存在してこそか。 ※(注1)(注2) 記事では「中断したまま」とあるが、水戸一高沿革には「廃止」と記載。 ■定期戦関連ウェブサイト・ページ 昭和の定期戦「土・水戦」(土浦一高野球部サイト内) |