都城泉ヶ丘高校百年史

対西校野球定期戦の始まりとその推移

旧職員○○○○

(一)対西校野球定期戦の始まり

  県下の進学熱が次第に高まっていく中で、昭和三十八年度に都城西高等学校が誕生し、都城における普通科高校は、都城泉ヶ丘高校と都城西高校との二校になった。両校がお互に刺激し合いながら成長していくための方策として合同選抜がとられ、両校を均等な質の学校に育てていこうとしたのである。

  昭和四十一年度になって都城西校が三年生まで生徒が揃ったところで次第に両校が良きライバル校としてお互を意識するようになってきた。周囲もまたそのような 期待感をもっていた。そのような背景の中で対西校野球定期戦が始まったのである。

  始まりの直接のきっかけは、その当時泉ヶ丘高校の長老として長く同校に勤務されてきたO先生(当時教頭)が定年退職されることになり、今までの先生の労を犒うと共に学校に 尽くしてこられた功績に感謝するための会が関ノ尾の「しぶき荘」で開かれ、その席で 話が持ち上がったと記憶している。その席に当時の西高校のI校長も同席されており、泉ヶ丘高校の当時のN校長が互に切磋琢磨して伸びていくためには、両校の生徒が一堂に会し競い合う野球のようなスポーツを続けていけたらということで具体的な構想が両校の関係者の間で練られていったのである。会場としては出来上って間もない市営の野球場を借用することにし、両校の全校生徒が参加する形となったのである。

  因みに現在掲げられている対西校野球定期戦の目的を挙げておくと次のようである。

目的

都城西高校と都城泉ヶ丘高校の両校が野球定期戦を通じて交流することにより

(1)親睦をはかり、友情の輪を広げる。

(2)連帯感を高め、愛校心を育成する。

(3)すべての教育活動において、切磋琢磨する精神を育成する。

(二)野球定期戦が始まった頃の校内の背景

  野球定期戦が始まった昭和四十一年以降といえば、全国的に学生運動が激しくなっているころで泉ヶ丘高校でも生徒の動きが、他校との連携をとりながら勢い付いてきていたのである。一部の生徒の中には、外部の動きに刺激されて、校内外で体制の在り方を批判し、校内の壁に落書、ビラ貼り等をし、一時は校長室内に机等でバリケードを築いたりしたこともあった。

  この様な時期に、例えそれが両校の親睦という目的のためとは言え生徒を一堂に集めるということは一触即発ということになりかねないという懸念も多分にあったのである。また一方職員の側からすると、組合的な動きも強かったので全面的に野球定期戦に賛成するという雰囲気ではなかった。

(三)対西校野球定期戦の形態

  最初のころは、年に春秋の二回実施するということで出発し、春が泉ヶ丘高校、秋が西高校の当番として定期戦を運営していったものである。そしてこれを学校行事として組み込むことが難しい情勢の中で、土曜日の午後(放課後)に生徒会行事の一環として位置付け、生徒会係の主導のもとに生徒の動員を行ったのである。したがって生徒の動員に拘束力がないため、途中で抜けて帰る者もでてきたりした。また他の運動クラブの生徒の中には、何も野球だけがこの様な形をとるのはおかしいといううことで、自分たちのクラブでも西高校との交流試合をしたいという動きも強くなってきたのである。

  また職員の側からは土曜日の午後は勤務時間外ということになり、総ての職員を拘束して生徒の指導に当たらせるということは不可能であった。従って最初の生徒の把握のところだけをお願いして、後は先生方の自主的な判断での参加をお願いしたのである。とは言っても、野球の定期戦が始まると、両校の生徒による大応援団が競い合って大会を盛り上げ、大きな興奮の中で定期戦が実行されていったのであった。

(四)対西校野球定期戦の形の変遷

  以上のような情勢の中で、平成二年度(第四十回大会)より年一回とし五月の第二木曜日に実施することにしたのである。即ち、午前中に野球定期戦を実施し、午後は他のクラブで西校との対抗試合や合同練習を行うようになった。特に平成十一年度より文化部の中からも茶道クラブが合同参加をするようになって、両校の交流が次第に全校生徒に定着してきているのである。

(五)野球定期戦を通しての両校生徒会の親睦

  野球定期戦を盛り上げるため、両校の生徒会同士の話し合いがもたれ、応援の形態等についても話し合った。奇抜な応援でエスカレートした応援にならない様に 応援の服装、鉢巻、太鼓その他の小道具等についても取り決め、節度ある応援をしようと生徒会を指導したものである。また、試合終了後は、両校の勝負の興奮をしずめるためもあって両校の生徒がグラウンドに降り立ち、両校の生徒が入り乱れてのフォークダンスをするという企画をしたこともあった。とにかく生徒が解散するまでは気が抜けなかった記憶がある。

(六)野球定期戦が両校生徒に与えた影響

  野球定期戦始まった当初、七回までは立て続けに泉ヶ丘高校の方が勝ち進んだ。西高校の職員の中にはこのような状態で負けが続いていけば生徒の志気にも影響が出てくると心配し、野球定期戦を止めて、もっと進学面に力を入れていったほうが良いのではないかという声が出始めていたように聞いている。しかし第八回の定期戦で初めて西高校が勝つと西校は喜びに包まれ、大いに士気が奮い立ったということである。それ以後、西高校が勢力を盛り返し、現在では完全に逆転されて、平成十一年度で第四十九回の定期戦になるが、実に十九勝二十六敗と大きく泉ヶ丘高校が負け越しているのである。最近の二、三年の勝利を生かして再逆転のふんばりを見せてもらいたいものである。

  このように両校が相手校には負けたくないという競い合いの気持が全校生徒の心の中に強く働いているようで、野球に限らずすべての競技、学習の面でプラスになっていることは野球定期戦の大きな効果ではないだろうか。

(七)対西校野球定期戦の波及効果

  対西校野球定期戦が定着してくるとこれに対する市民の関心も高まってきて、定期戦の始球式に市長が参加して頂き、大会を盛り上げてくれることも出てきたのである。

  このような形で野球定期戦がもたれたのは、泉ヶ丘高校、都城西高校の野球定期戦が初めてであった。この定期戦がきっかけとなって、都城市内の実業系の学校(農業、工業、商業高校)、その他延岡、日向、児湯、日南等各地にその動きが広がっていったのである。今では中断しているところもあるように聞いているが、全体的にはその輪が広がっていったことは確かである。

  最後にこの定期戦を通して両校職員間の親睦がはかられたこともつけ加えておきたい。当初は野球定期戦の後で、両校職員の有志が集まり親睦会をもち、定期戦のことだけでなく、進学面のこと等色々な情報交換がなされ、両校の教育活動の面にプラスしたことは確かである。

【出典】

■書籍名 都城泉ヶ丘高校百年史

■刊行年 平成13(2001)年

リンク

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