大宮高校百年史 |
四校定期戦 市内四校の普通科高校の生徒が「スポーツを通じて交流をはかることにより友情を培い連帯感を強め、好ましい集団意識の形成と集団活動の場とし、団結と愛校心を育成する」を意義・目的として始まった定期戦(野球)も平成二年度で第十一回を数え、いまや市民も注目する行事として脚光を浴びている。 この定期戦は幾多の紆余曲折を経て、昭和五十五年六月、本校(宮崎大宮高校―管理人註)の校長を中心に三校の校長(南、西)の合同意思をもって芽生えたものであった。「心の教育」「ゆとりの教育」「青春の感激と感動」を軸としたスケールの大きい画期的な構想でもあった。そしてその年の十一月十四日、第一回の三校定期戦は行なわれた。三校の全生徒職員四千余名が錦町の県営球場に会し、母校の応援に燃えた。その様を見る限り、大会の意義・目的は十分過ぎるほど結実したものであった。 第一回の定期戦に向け、校長は「早稲田カラーの応援を体得するように」と当時応援団の顧問であった教諭を数名の応援団の生徒と共に小倉高校へ派遣した。 本校の応援団は団員二〇名と臨時応援団の生徒六〇余名からなる。黒の制服、赤地に大宮を染抜いた鉢巻き、白手袋の男子ばかりの応援は、統制・力強さ・重厚感において二校を圧倒した。その証拠に翌日の宮崎日日新聞には「大宮―宮崎西戦から試合を開始。すさまじい応援合戦、大宮はブラスバンドをバックに男性だけの応援団、気合いを入れるためにと全員が素足で蛮カラな応援<中略>試合の方は甲子園の出場経験を持つ大宮が伝統の力を見せ二勝」とあった。 球場にこだまする本校の大応援歌、校歌をバックに大優勝カップを抱きグラウンドを一周する本校の選手を見るにつけ、伝統校としての雄雄しい姿を一層印象づけたことであった。 第一回の開催にあたり、三校の企画・立案・運営に携わった当時の生指部長教諭の苦労もまた筆舌に尽くし難いものであった。 以後昭和五十九年に宮崎北高校の新設にともない四校定期戦となり、県営球場から木花の市営球場へ場所を移し、実施日も陽春五月の連休明けとし、今日に及んでいる。 【参考文献】 ■書籍名 大宮高校百年史 ■刊行年 平成3(1991)年 |
創立50周年記念誌 誇りを胸にはばたけ鵬 |
第1回3校定期戦 本校に野球部が発足したのは開校から2年目の昭和38年度のこと。部員は試合ができるぎりぎりの11名。これでは故障者が出れば試合にもならない。以後10年間は9~15名で活動していた。 こんな状況下で宮崎市内の普通科の高校同士で野球大会を開きたいと熱望している生徒がいた。生徒会長を務めていたM(原文は実名―管理人註)12回生である。しかし、部員が少なかったり、本校が乗り気でも宮崎大宮高校が乗り気でなかったりして、計画は前に進まなかった。Mの熱意はその後も生徒会総務が新しく発足するたびに引き継がれた。49年度に宮崎西高校が開校すると、それぞれ3校の都合があり、野球大会の実施はますます難しくなった。 ところが、当時の生徒会総務やH(原文は実名―管理人註)校長はじめ数人の教師たちは希望を捨ててはいなかった。本校の強い働きかけが功を奏し、ついに55年6月下旬の3校の校長間で合意に達し、記念すべき第1回3校定期戦は11月14日、本校が当番校になって行なわれることが決定した。 定期戦までの約6ヵ月、十数回の打ち合わせが本校で行われ、出席したのは3校の生活指導部長や野球部監督、生徒会などで、試合の形式や会場の設営、応援の仕方、開閉会式の式次第、トイレのことなど実に多くの課題があった。第1回目の会合で名称を3校野球リーグ戦とする原案が出されたが、将来、野球だけでなく多くの体育部門、文化部門で交流を図ることも考慮しなければならない、という意見もあった。「それじゃ、野球を取って3校リーグ戦はどうだろうか」との提案もあったが、結局「3校定期戦」に落ち着いた。そのほか、なぜ野球だけ特別扱いにするのか、土曜日の午後にできないか、全職員が参加しないといけないのか、教育的位置付けがあいまい、丸一日授業をカットして見学させる価値があるか、県営球場は狭くてファウルボールがスタンドに飛んでくる可能性が高い、などといった批判や意見も出された。開始時刻や役員、来賓の決定、国家と校歌の斉唱、入場行進の体形など全てのスケジュールが決まったのは定期戦が迫った10月下旬のことだった。 まず応援団を作らねばならなかった。どこから手をつけていいか生徒会は悩んだが、夏の全国高校野球大会で甲子園に出場した日向学院高校に出向いてノウハウを教えてもらうことから始めた。団員を十数名募り、残りは1、2年の各クラスから2名ずつ選出し、早速応援の練習を始めた。団員のユニフォームや襷、鉢巻き、手袋、笛なども必要だった。中庭で夜7時過ぎまで電灯をつけて男女別々に練習し、最後に吹奏楽部と合同練習を繰り返した。ブラスバンドの演奏曲目は「青い珊瑚礁」「不思議なピーチパイ」など数曲。試合の前日、ロングホームルームを利用し全校生徒の前で練習の成果を披露したが「思っていたより良い感じ」という評価を受けた。 そして定期戦。翌日の宮崎日日新聞は「同日は午前8時までに先生、生徒約4,200人が登校。球場は外野席までいっぱいに詰まった。選手宣誓など開会式のあと宮崎西―大宮戦から試合を開始。すさまじい応援合戦となり両スタンドは暑いムードに包まれた。大宮はブラスバンドをバックに男性だけの応援団。気合を入れるためにと全員が素足でバンカラな応援。一方、クラブとして応援団のない宮崎南と宮崎西はこの日のためにと即席応援団を組む熱の入れよう。宮崎西の場合、わずか4日でチアリーダー団が誕生した。宮崎南も『負けられん』とやんやの声援。チアリーダーは独自の振り付けでポンポンを振り、一生懸命。プレーも各試合、母校の名誉をかけた激突だけに力が入っていた。大観衆に飲まれてエラーも目に付いた」 試合は甲子園の出場経験のある大宮が伝統の力を見せて2勝、宮崎西が1勝1敗、グラウンドの拡充工事で練習不足の本校は2敗に終わった。本校の野球部員たちは「今度は定期戦を目標に練習を積まなければ」と気を引き締めた。この定期戦には美談があって「さすが3校の生徒、ちり1つ落ちていなかったしトイレも隅々まできれいに掃除がしてあった」などと球場関係者から褒められ、大宮高校の教師からは「南高校の接待係は素晴らしかった。ネット裏まで掃除し、すくった砂はそっとグラウンドに返す光景を見た。これが教育実践の真の姿だと思った瞬間、涙が出た」と言われた。この3校定期戦に新設の宮崎北高校が加わり、4校定期戦としてすっかり定着している。 【参考文献】 ■書籍名 創立五十周年記念誌 誇りを胸にはばたけ鵬 ■刊行年 平成23(2011)年 |